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新林
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シリーズ山主に会いに行ってみる

国土の7割を森林が占める日本では、これまでどのようにして山を守り、育ててきたのでしょうか。日本の三大人工美林である奈良県の吉野、静岡県の天竜を訪ね、先祖代々山を守ってきた山主の方々に会いに行きました。

250年の木の下で、未来の山林を思う。 吉野の岡橋清元さん

奈良県を代表する河川の一つ吉野川の上流域には、日本最古の林業地が広がっています。この地で17代続く林家を受け継ぎ、作業道づくりに取り組まれている清光林業会長の岡橋清元さんを訪ね、吉野の歴史とこれからの林業経営についてお話を伺いました。


岡橋清元さん
奈良県橿原(かしはら)市生まれ。吉野林業地で約1,900haの山林を所有する清光林業株式会社会長(創業家当主)。1980年より大橋慶三郎氏に師事し、同氏の指導のもと自ら現場に立って道づくりを開始。以来40年にわたり伝統ある林業地で新しい山林経営を行っている。


日本最古の林業地

「私どもは江戸時代の中頃からいわゆる山主として林業を営んでいます。清光林業としては創業71年目をむかえます。吉野林業の起源は今から500年前の室町時代まで遡ります。後南朝滅亡後に南朝の遺臣たちが南帝の御霊を守るために吉野に留まり、稲作に適した平野が少ない土地で、山を生業として暮らしはじめたと伝えられています」

借地林業と山守制度

吉野は米が育たなかったことから、飢饉があるたびにかなり疲弊していた地域でした。江戸中期ごろから、山の維持にかかる管理資金を工面するため、村内の有力者や村外の豪商に山の地上権を売って資金を得る「借地林業」を始めました。山守は山主に代わって山の管理や集材の手配などを行うことで生計を立てるようになりました。経営と所有が分離し、資本主義的な「山守制度」が確立しました。

「当時は銀行がありませんから、子や孫に財産を残す手段として借地林業が豪商や豪農に受け入れられ、遠くは和歌山・大阪・京都などから資金を得ることができたそうです。
私の先祖も吉野ではなく、奈良の旧真管村(現奈良県橿原市)の庄屋で、私の父親の代までは、いわゆる本物の山旦那(山主)でした。私は自分が山へ入っていますけど、山主が山へ来てごちゃごちゃ言われるのは山守さんにしたら困りますから、うちの親父は生涯二回しか山に行かなかったそうです。それが本来の山主と山守の間柄だったんですね。

山守の収入は、立木皆伐時に木の売上げの5%が山主から支払われるというものでした。この仕組みはいわば定期預金のようなもので、『この木は満期だから伐って下さい』といった感覚です。満期まで待った方が利回りが良いし、乱伐すると山主は管理費を頻繁に支払うことになり、山守は収入源を無くしてしまいます。結果的に山主も山守も、出来るだけ長伐期で山林を育てようという考えになるんですね。うまいこと経済と森林保全のシステムが成り立っていたんです」

目合い、色合いが美しく、真っ直ぐで節の少ない吉野材

吉野では苗木を密植し、除伐、間伐、枝打ちを繰り返して木々の密度管理を綿密に行うことで、長伐期の大径木に仕立てる独自の育林技術が発達しました。密植と多間伐によって成長を遅らせた木は、日光を求めて真っ直ぐ上に伸び、スギの場合は枝が自然と枯れ落ちます。これによって、根元から上部までほぼ同じ太さになり、節が少なく、目合い(年輪の細かさ)と色合いが良い、丈夫で美しい木材になります。

「吉野では1ha辺り1万本もの苗木を密植しますが、一般的には1ha辺り2〜3千本程度です。これはやはり、苗木を沢山植えてより多くの資本を集めようとしたのがきっかけだと私は思っています」

酒樽と束木丸太

吉野の大径木は、酒樽(樽丸)の材料として需要が高く、樽に適した80年から100年の木を多く育てていました。長伐期で経営が成り立っていた理由は、間伐のために伐った小径木がよく売れたからでした。

「節が少なく真っ直ぐな丸太は束木丸太と呼ばれ、京都の数寄屋建築に好んで使われました。細い丸太なので女の人でも何本もまとめて運び出せる上に、1本の値段が当時の日当より高かったと言われています。これによって他の地域のように40年50年と待たなくても、間伐材で十分に元が取れたのです」

明治、大正を経て昭和に入ると、終戦後の木材不足で吉野材の需要が高まり、好景気の気運はそれまでの木材の販売システムを変えていきました。戦争以前は、山主が直接木材商と木材の取引を行っていましたが、山守が山主の木材を買い付け、それを山守衆が吉野に開設した原木市場に出荷するようになりました。

「この頃は山守衆が一番力を持っていた時代です。好景気は昭和50年代の半ばまで続きましたが、そのうち木材価格が下落を始めると、今まで続けてきた山守制度や商いが成り立たなくなってしまったんですね」

近代林業への挑戦と、大橋式作業道との出会い

「私が会社を継いだのは、終戦後の好景気が陰りを見せ始めた昭和52年です。当時の吉野はヘリコプターによる集材が主流でしたので、集材・搬出費のコスト高が問題でした。そこで、当時機械化が最も進んでいた岐阜県の材木会社で修行していた私は、習ったばかりの近代林業を吉野で実践しようとしました。ところが道づくりに失敗し、自分の山をだいぶ潰してしまったんです」

「もうダメだと諦めかけていた時に偶然出会ったのが、大阪の急峻な山で、高密度の路網づくりを実践していた大橋慶三郎先生でした。これは参考になると思い、先生に山を潰した事情を話して指導をお願いしたところ、「壊れた道を修復してから、新たな道をつくるのが条件。ただし人任せにしないで、あなたが自分でやるんなら教えよう」と厳しいお言葉をいただきました。面白い先生でね、私はすぐに先生に弟子入りしました。この時から本格的に道づくりを始めました」

大橋先生の作業道は、山を崩さない道です。地形に沿って作られた路網の道幅は最小限の2.5m。これによって山にも人にも都合のいい環境を破壊しない道を作ります。

「先生から、アメリカやヨーロッパの大きな機械に合わせて広い道を作るからダメなんだ、道幅に合った機械を買ったらいいと言われて、ああなるほどなと思いましたね。2011年の紀伊半島大水害の時には、あちこちの山が崩落したにもかかわらず、大橋式の作業道が一つも崩落しなかったんです。このことが評価され、奈良県では「奈良型作業道」という名前で補助金の対象となりました。行政が動き出すと、各組合でも研修会が始まって、大橋式が吉野で日の目を見ることになったんです」

新しい山林の担い手のための道づくり

「時代が大きく変化した今も、吉野の強みは太い木があるということです。今でも外から山に興味を持った方が吉野に来られるんですね。そういった新しい山林の山主・山守が一緒に協力して間伐材の搬出や山の手入れをしていく新しい制度を構築すればと思っております。ただ、UターンやIターンで30、40歳で林業の世界に入ってきた人には、道のない急斜面での作業は非常に危険です。昔のように、中学校出てからずっと林業に携わってきたような山のベテランの人でないと無理です。そういった意味でも、急傾斜地の仕事を平坦地の仕事に変える作業道の役割は重要なんです。平坦な道さえ整備されていれば、少し経験を積めば誰でも働けるようになります」

地域が一丸となって山林を守る

「私が路網づくりを始めた頃は、山守制度で細かく所有権が分かれていたことによって、なかなか思ったように進みませんでした。「道を作ったら木が減る」という人もいますし、絶対通させない、という人もいました。そのため、地形に沿った理想的なルートで道を作れず、お金もかかりました。それが今ではね、木材価値が下がったことで、木で食べていこうという山主はいなくなりました。皆さんが路網作りに協力的になったおかげで、我々の仕事もずいぶん楽になりました。

今の時代、林業だけで食べていくのは大変です。うちも不動産業をやってなかったら大変だったと思います。また、これからの時代はひとつの会社で頑張っても仕方がないと思います。吉野の山林を未来に残していくためには、山主・山守共に路網を共有し、村や森林組合、それから地元の有志、新しい山林の担い手など、地域が一丸となって取り組まないといけないと思います」(取材日2021年8月27日)

250年の木の下で、未来の山林を思う。 吉野の岡橋清元さん 掲載号

新林 第3号の表紙

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