もう、欲しいものなんて無い
父のたわごと
私が山で木を伐るに至った経緯を、もう少し書いておきたい。
そもそも山に行き境界を確認し、木を伐ろうと思うようになったのは、父のボソボソ話を一つでも確かめようと思ったからだ。
「爺さんと歩いたあの辺り、記しをペンキで木に書いてきたけど、まだ残っているのかなあ」「山から木を伐って出したら、今だと、どれくらいの値段で売れるのかなあ」「木を市場に出すには、どんなやり方があるのかなあ」
本当に父が知りたいと思っていたのかどうかは、よくわからない。ただ私の父は山だけではなく、社会に対しての疑問、地域の気になること、新聞ネタなど、とにかく口にする人で、私と母は疑問とまでいかないボソボソに答えようと、よく他愛もない話をした。
父は婿養子だった。継いだ家への責任を感じつつ、土木現場の転勤族だったことに加え病気がちの人生で、一所で何かに取り組む状況からは程遠かった。祖父と山歩きはしたようだが、山の手入れはほとんど手伝えていない。ただ思いを話すことで、ジタバタはしていた。
美術作家と木を伐る
前回の連載で記した2022年3月。うちの山の近くに住んでいる現代美術家の鈴木孝幸さんから「自分の山の木を自分で伐ってみませんか?」と言われ即答できたのは、前述の父とのやり取りがぼんやり頭の中にあったからだと思う。
鈴木さんはリサーチ型の美術作家で、絵を描いたり、形ある彫刻を作ったりする人ではない。生まれ育った山間地域に住みながら、自然現象や災害、社会の歪みや綻びを、映像や写真で視覚化したり、石や木を使って空間を研究したり、言葉を通して「彫刻とは何か」を提示する地道な美術作家だ。美術とは何かを作ることだけを意味しない。作品を通して多様な考えに出合い、人生のあわい(間)を知る活動であることを、私は仕事柄、知っていた。彼が木を伐って何をしようとしているかは全くわからなかったけれど、「木を伐る」ことそのもの、そして山に対峙している「私」が「私の山の木を伐る」ことを鈴木さんが面白がっていると感じた。それは私も楽しめそうだと思った。
鈴木さんは山の廃校で、2014年から約10年にわたって年に一度、展覧会を開催していた(現在は休止中)。その作品展が9月なので、8月に木を伐りたいという。山の所有者は父と母なので「今回は木の価値そのものがわかるわけではないけれど、まずは木を伐ってみたい」と私が言うと、「そうだな、まずは一度、やってみることからだな」と父は承諾してくれた。木を数本伐って、自分たちで運んでみる、そんな小さい感じが安心に繋がったのだろう。木の伐採に最適なのは冬だが、アイディアがギリギリ固まってくる美術作家にあわせ、夏の終わりに実施することになった。
木の出し入れは、鈴木さんが自身の車で行う。夏の木は水揚げしているので、とにかく重い。そこで、うちの山の中でも道端沿いの人がほぼ通らない場所で4~5本の杉の木を伐ることにした。鈴木さんと鈴木さんのお父様、Kさんに見守られる中、プロの手を借りた。
言葉/イメージ/質量のズレ
これを機に、私は何度も木を伐る現場に立ち合うようになり、今は自分で木を伐ることを体験させてもらっている。安全な方向に木がパサーっと倒れていく様は、ただただ美しい。初心者向けの伐採講座では拍手が湧く。「木は大きくて重い」ことを実感する瞬間だ。この体験から、土砂災害などの様子をメディアで見るたび、復旧困難な道に横たわる木の大きさ、その根が支えていた土砂の堆積に実感を持って慄くようになった。
玉切り※1した木を車に乗せ、鈴木さんが何往復もかけ運び、学校の校庭に展示する。すると、木の大きさはあっという間に変容した。なんだか小さく感じるのだ。プロが見れば、太さや年輪の入り方で、その木がどこでどんな風に育ったかがわかるらしい。木が垂直に立っているイメージが頭の中で再現されるそうだ。しかし私を含めた一般の方には到底無理だ。見る場所が移動したり視点が変わると、そのものが全く違うように見えることがある。それは、それぞれの人間が語る「山」とか「アート」とか「サイズ感」が(実は)微妙にずれていることと似ている。
※1 玉切り:伐倒した木を用途に応じて定められた長さに切断して丸太にすること
その後、鈴木さんは山で木を伐ったことを含め、こんな文章を書いて見せてくれた。(長文のため、一部抜粋しています)
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そこに山があるという嘘
テキスト=鈴木孝幸 (2023年4月執筆)
「愛郷に私の山があります」
「愛郷」というのは地名です。「私」というのは女性です。「山」というのはmountainです。
北海道で「ピポロ」が「美幌」に姿を変えたように、「アイゴー」が「愛郷」になったかどうかは定かではありませんが、さぞかし良いところなのだろうという想像はつきます。誰もが一度は訪れる里山でありたいという願いを込め、‘I go.’が由来となった、という「嘘」もまた成立してしまいそうです。
さて。
冒頭のあまりに漠然とした一文の中に、おそらく多くの人が具体的なイメージを想像できるのは、「山」がポピュラーな名詞であり、かつその代表的な視覚イメージ「」が確立されていることと、現代人が「所有」という概念について慣れすぎてしまっていることが原因なのかもしれません。「私の山があります」だなんて、何とも曖昧な話なのに、私(この場合は鈴木)もまた何の不思議も持たずに、多くの人と同じイメージを「共有」してしまいそうになります。ただ、ここで重要なのは、女性の「山」と、私たちが想像するこんもりとした「」がまるで別物だということです。そこには、女性にしか分からない、その山の「質量」があります。
さてさて、話をもう少し戻しまして。
実のところ、その山は初め、女性にとっても「」だったようです。なぜなら、都会に住む彼女は、ある日突然に愛郷に住んでいた祖父の山を相続することになったからです。そこがどんな場所なのか、自分の山の境界がどこまでなのか、山を所有することとは、管理の仕方、活用のこと、山の持つ役割について、何もかもが真っ白でした。
「」。しかし、彼女は一年以上をかけ、専門の方々との調査や現場に携わる人々との交流、山自体のリサーチを経て、一つ一つ確認し、様々なことを覚えていきました。そして、都会に住む自分とその場所とのつながりも肌で感じました。そこには、境界や山の役割を「知る」こと、その活用を「考察する」ことに加え、実際に木を伐るという「質量」を伴う「体験」も含まれています。「」はみるみるうちにその姿を変え、とてもこの文面の中では描けないほどの「情報」と「質量」を備えていきました。山=自然であるという初期のイメージから、そこにある命の時間、人間関係、さまざまな物事を含んで山はそこにある、そんな風に感じるに至ったようでした。
私たちは「共有」する生き物です。
彼女もまた、この得た「情報」と「質量」をどう「共有」していくのかについて思いを巡らせることでしょう。そこで大切なのは、「」に返してしまわないことではないでしょうか。
<中略>
私たちは何かを「共有」することを大切にし、「嘘」をつくことに慣れてしまっているのかもしれません。重要なのは、やみくもに「共有」に回収せずに、そこにある「質量」をしつこく確認することではないでしょうか。そして、得られたものをどうみんなの問題として考えていくのか。それは、後からついてくる、はずです。
<以下、省略>
※これは、2023年9月に鈴木さんが開催した展覧会のステイトメントとなりました。
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相続がやってきた
鈴木さんや展覧会に携わってくれた方と、伐った後の木の使い道についても考えた。最終的には薪として売り、それは地域通貨となり、近くの温泉で行った打ち上げ代にした。当時はGO TO トラベルキャンペーンの時期が重なり、コロナ禍に山奥でひっそりと楽しい時間を過ごした。山も美術も考える単位が100年、もしくはそれ以上なのに、10年単位もしくは風吹くように変わっていく価値観に揺さぶられたりしていて、そんな共通項が趣深いなんていう話をした記憶がある。
何でも楽しそうにしている私の様子を見て、父母は面白がったり、呆れたりしていた。鈴木さんの作品も見に来たが、何だかよくわからなさそうにうろついていた。でも、うちの木が役に立った、とは思っていたようだ。そして、鈴木さんの展覧会をきっかけに出会った山の爺達から本格的な木の伐り方を教えてもらうようになっていくにつれ、「任せてもいいだろう」と思ったらしい。父は山の贈与(相続)を早急に進めたいと言った。そうはいっても、まあボチボチ…と思っていたこちらの予想を裏切って、2023年12月半ば。突然「年内に完了する」ことを決めてしまった。父が入退院を繰り返すようになったことが一因だ。しかし「わざわざこんな年末に…」と何度言っても、頑として聞き入れない。そんなやり取りで貴重な日が過ぎてしまった。そして、年末の最終週。12月の行政事務は28日までなのに、12月26日に印鑑証明、住民票、土地の権利証、身分証のコピーを集めてほしいと、司法書士から連絡が来た。弟のものも必要なのだが、彼は東京勤務だ。「なんでこんな忙しい時に…」と怒られながら、私は実家や役所をバタバタと行き来した。司法書士から「ギリギリなんとか提出できました」と連絡があった時は、ほっとした。「本当にこのスケジュールでやるんだろうかと思いながら、連絡したんです。うまくタイミングが重なりましたね、異例です」と言われてしまった。そのことを父に告げると、不惑な笑みを称え、一言放った。「ざまあみろ」。
私は山のことも含め、父の戯言を実現しようとしていたつもりだった。しかし父としては「なかなか叶えてくれない」と思っていたようだった。ベッドにいる時間が長いと、具体的に何をしているのか想像することが難しくなるのか、私が山へ向かう姿を「自由で楽しそうでいいなあ」と羨ましがっていたのか。こちらはただ必死なんだけど。それぞれにイメージする山があり、正義があり、それぞれの切羽詰まった日常がある。父とは何も「共有」できなかったのかもしれない。でも、私はとうとう山主となった。
今年の暑い暑い夏、にわかに過ぎないが、母と二人で山へ草刈に行った。入院していた父に汗ダクの様子を知らせると、「退院したら、山に行きたいなあ」と、よく呟くようになった。私も連れて行く気満々でいた。父と最後に会った日、私にこんな言葉をかけてきた、「何か欲しいものはないか?」。はぁっ?たくさん山を相続したんだから、もう充分、欲しいものなんて無い。
2024年9月末、父は静かに息をひきとった。「山」はそこにあって、この世にいなくても父と共通の問題であり続ける。とにかくしつこく、通い続けてみる。
山川 愛(やまかわ あい)
愛知県在住。公益財団法人かすがい市⺠文化財団プロデューサー。金沢美術工芸大学工業デザイン科を卒業後、アートマネジメントの領域で活動。同財団に入職後は、展覧会や演劇公演の企画・広報、昨今は自分史を始めとした市民との協業事業を担当。2021年から亡き祖父の山に入り、山主として自分に何ができるかを模索している。
あとがきコラム#7 山と映画(父と映画)
濱口竜介監督 『ドライブ・マイ・カー』
小学4年生の時に、広島に引っ越した。父が山陽自動車道を作ることになったからだ。『はだしのゲン』を観ていた私は、緑のない土地へ行くのだと、夜な夜なうなされた。しかし、新幹線を降り立ったその土地は、大きな川がゆっくり流れる、緑と青に包まれた美しい街だった。そんな特別な場所で、不条理と再生の物語は撮影された。映画館に流れるこの景色は、幼い私の瞳だとのめり込み、4回も見に行った。
トンネルを抜けて、赤いサーブが広島の街へ入る。
「ここで発破をかけるんだ!」父が自慢したくて連れていった、あのトンネルだろうか。当時の記憶を瞼で探した。
山を崩した仕事、山を守ろうとした晩年、それが一人の人生の中で起こる。この映画の中に挿入されている劇『ワーニャ叔父さん』でも、その不条理はしとやかに伝えられる。そんな矛盾を受け入れながら、私たちは「長い長い日々を、長い夜を」生き抜いて行くのかもしれない。
(画像は、映画のパンフレットと、宮島へ遠足に行った時の写真。忘れていた思い出ですが)
シリーズ「山って…何なん?」 と何度もつぶやくことから始まった、山主候補生の活動日記
「山って…何なん?」 と何度もつぶやくことから始まった、山主候補生の活動日記
祖父が残した言葉をきっかけに、山へ通いはじめた「私」。祖先が守ってきた山とは、何なのだろう。
爺さまが残したもの
[新連載] 2020年の春、爺さまが亡くなった。最後の言葉は「山は、もう、いい」だった。
ところで…「山」ってどこにあるの?
祖父と過ごした思い出の山はどこにあるのだろう? 行けば「うちの山」ってわかるのだろうか?
山の境界を歩く(1)
静岡県浜松市の水窪町で出会ったのは、自伐林家に生まれ、山と共にいきてきた一人の若者だった。
山の境界を歩く(2)
山の境界を目指し、いよいよ山の中へ。道のない山面を必死で上がると、爺さまたちが守った山の姿があった。
山の境界を歩く(3)
相続する山がどこにあるのか、境界線がどこなのか。山を歩き、県庁を訪ねてわかってきたその全貌とは?
境界を知って、そして
山へ通うようになって3年、境界を歩いたからこそ見えてきた、次の道とは?