爺さまが残したもの
新連載
わたしが山へ行く理由
2021年から、私は突如山へ通いはじめることになった。
「山に行ってくる」と口にするたび、周囲の反応は千差万別だ。
「どこの山?」「登山に行くの?」「そんな趣味、あったっけ?」
「●●山を登ってくる!」とわかり易く伝えられればいいけど、私が山に行く理由はそうではないため、少し説明がいる。その説明を相手が求めているかも問題だ。
理由は簡単で、いつか自分が相続で「山」を引き継がねばならない未来がみえてきたということ。そうなる前に、曖昧な「山」という持ち物を少しでも解明しようと、現場である山に行き始めた。何がどうなっているのかわからず、途方もない自然を前に、ただ呆然とするだけだと思っていた。
ところが、行けば行くほど山への解像度はあがり、綿綿と続いてきた人の営みが見えてきた。「自然」として見ていた山が、街の縮図のように感じることが多くなった。そして何より、山には、面倒で厄介なだけで終わるには勿体ない、面白さや発見があった。
こうして「わたし」の好奇心の赴くままに活動をはじめたその記録を、少しずつ綴ってみようと思う。
それって、遺言なの?
うちの爺さまが亡くなったのは、コロナが蔓延し始めた2020年の春だった。2019年の秋に突然歩けなくなり、認知症のようだと家族で話していたら、脳腫瘍だった。半年で逝ってしまった。御年94歳。爺さまは昔から耳は遠かったけど、亡くなる半年前までは、朝3時に起き、一人で山に行っていた。餅と餡子が好きで、頭も歯も足腰もしっかりした人だった。コロナで面会謝絶になる直前、療養施設に会いに行った。すっかり変わり果てた姿に、私は立ち尽くすしかなかった。
一緒に行った母が席を外した時に、突然祖父が私に話しかけてきた。「山は、もう、いい。山は、もう、いい亅。それが祖父との最後の会話となった。
その言葉が気になったと言うと、格好良すぎるかもしれない。しかし「もういい」って言われたところで、祖父が亡くなっても、山はそこに変わらずある。そしていつか私たち子孫が受け継がねばならない。
案外知らない、爺さまの話
祖父のお葬式はコロナ初期の行動制限中のため、最低限で行うことにした。爺さまが最後まで会いたがっていた甥っ子たちは、東京から来ることができず、義妹・甥っ子2人が夜鍋して折った折り鶴を携え、弟が一人で通夜にやってきた。田舎に住む祖父の兄弟たちは、まあまあな御歳にも関わらず、全員集まってきた。祖父が長男だったということもあるだろう。
どの家族も同じだろうが、高齢の親戚が集まる場で語られるのは、小さい頃のこと、時代の話、そして山での暮らしぶりだった。石板の字が綺麗だったこと(そういえば祖父は山と書道を最後まで嗜んでいた)、太平洋戦争末期の予科練だったこと(祖父からは戦争の話は一つも聞かなかった)など。山の家にはもちろん水道は無く、みんなで重い水を運んだそう。そのリーダーは長男の祖父だったらしい。
生前の祖父も、療養施設でヘルパーさんに「清水(きよみず)の水がうまかった」と何度も語っていたと後から聞いた。「京都のご出身ですか?」と母に尋ねるヘルパーさんに「いやいや、愛知県の山奥に『清水』という場所があるんです」と話していたらしい。たくさんの忘却のなかで、鮮明な味の記憶とともに山の思い出を抱えて、祖父は旅立ったのだな、と思った。
なんて用意のいい人なの…
驚いたのは、お葬式を行うにあたり、祖父が生前に全ての準備を行なっていたことだ。一人で写真館に行き遺影撮影を行なっていたので、写真を探す手間が省けた。葬式の方法も、呼ぶ人も、持っている権利書や車の処理なども全てノートに指示書きされていたので、父と母は、判断に困ることが無かった。
ただ、祖父が書き遺している税理士も行政書士も、祖父と同年代だったので、連絡がつかない可能性が高い。相続手続きの依頼先だけは悩むことになった。父母とあれこれ相談する内に「顔がみえる・信頼できる人の伝手を辿ろう」と私が提案した。(そのうちおわかり頂けるかと思うが、私は伝手を頼ることをモットーとしている)。
税理士さんと初めて直接お目にかかった際に、父と母から初めて聞かされたのは、山林はすでに父母へ相続されており、山周辺の雑種地(田、畑、宅地)の相続が行われていないということだった。さっそく税理士さんは現地を確認するために山へ通い、場所を特定し、写真も撮影してきてくれた。2020年の秋には相続内容がすべて明らかになり、相続税の申告を確実に行うことができた。これらの手続きは通常、故人が亡くなった日を起点に10ヶ月以内に行わねばならないらしい。当時は、コロナのやむを得ない理由で期限延長することもでき、慌てて行う必要もなかったけど。
いなくなってから、思い出すこと
すべての書類を整えた税理士さんが「土地確認で山へ行った折に、お昼ご飯に鮎を食べることができてよかった」と言っていたことを、母から聞いた。うちの山周辺には奇麗な川があり、やな(梁漁を売り物にした食事処。川の中に足場=梁を作って、鮎を捕まえて楽しんだり、食事をしたりする)がある。子どもの頃、夏になるといつも、そのやなで大きな五平餅を買っては、曾祖父の家に行くのが習慣だった。大きな五平餅を、曾祖父も祖父も3枚はペロッと食べていたと思う。米や餅の好きな昭和人だったなーと懐かしく思った。その「やな」が今もまだあるのか。私も久しぶりに行ってみたくなった。
山川 愛(やまかわ あい)
愛知県在住。公益財団法人かすがい市⺠文化財団プロデューサー。金沢美術工芸大学工業デザイン科を卒業後、アートマネジメントの領域で活動。同財団に入職後は、展覧会や演劇公演の企画・広報、昨今は自分史を始めとした市民との協業事業を担当。2021年から亡き祖父の山に入り、山主として自分に何ができるかを模索している。
あとがきコラム#1 山と物語
「岩波少年文庫版 ナルニア国ものがたり 1 ライオンと魔女」
税理士さんに相談していた頃は初期のコロナ禍で、少しでも落ち着く時間を持とうと、私は岩波少年文庫の「ナルニア国ものがたり」(C.S.ルイス著)を読んでいた。歴史研究家の故・渡辺京二(当時はご存命)さんが「一番よくできているファンタジー」とお薦めしていたからだ。『ファンタジーはこの娑婆にひとり立ち向かう側にとっては勇気の源泉でもあるんですね』という渡辺さんの言葉に、幼い頃、現実から逃げるように本ばかり読んでいた自分の姿を思い出した。さらに祖父が亡くなり、大量の過去の物と物理的に向き合わねばならなくなったので、過ぎし日の、良いことも悪いことも、まざまざと蘇ってきてしまったのだ。だからこそ、自身を奮い立たせるためにはファンタジーが必要で、主人公たちと毎日、冒険の旅に出ていた。そんな旅をしながら、ずっと山のことを考えていたように思う。
シリーズ「山って…何なん?」 と何度もつぶやくことから始まった、山主候補生の活動日記
「山って…何なん?」 と何度もつぶやくことから始まった、山主候補生の活動日記
祖父が残した言葉をきっかけに、山へ通いはじめた「私」。祖先が守ってきた山とは、何なのだろう。
ところで…「山」ってどこにあるの?
祖父と過ごした思い出の山はどこにあるのだろう? 行けば「うちの山」ってわかるのだろうか?
山の境界を歩く(1)
静岡県浜松市の水窪町で出会ったのは、自伐林家に生まれ、山と共にいきてきた一人の若者だった。
山の境界を歩く(2)
山の境界を目指し、いよいよ山の中へ。道のない山面を必死で上がると、爺さまたちが守った山の姿があった。
山の境界を歩く(3)
相続する山がどこにあるのか、境界線がどこなのか。山を歩き、県庁を訪ねてわかってきたその全貌とは?
境界を知って、そして
山へ通うようになって3年、境界を歩いたからこそ見えてきた、次の道とは?
もう、欲しいものなんて無い
山を相続した私は、木を伐ることを学び始めた。その営みと共に、出会いや別れも訪れる。
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