境界を知って、そして
何をしたらよいか、わからないまま…
祖父が亡くなって4年、山へ通うようになって3年が過ぎた。
2024年4月、約一年半ぶりにKさんと山の境界を歩いた。森林計画図に記された祖父の記述が間違っていたため、見つからなかった山の境界を確認しに行くことも目的だったが、うちの山で「森林経営計画」を利用した間伐が始まることになり、その前にもう一度、自由に歩いてみたいという気持ちがあったからだ。用語だけ聞いてもちんぷんかんぷんだった「森林経営計画」というものに、自分が巻き込まれることになろうとは思ってもみなかった。そして、その計画の説明会には頼れるKさんに変わり、私が「山の爺たち」と呼ぶ、指南役のお一人に同席してもらった。人の境遇は移り変わっていくし、それにあわせてチームも変わる。山への解像度が高まるほど、レイヤーも増えるし、景色もアップデートされる。3年前には思ってもみなかった現在地だ。
散りばめられていたヒント
さて、まずは記述が間違っていた山のことを話そう。その場所をなぜ特定できたかといえば、存命中の祖父と一緒に山を歩いていた人がいて、測量データがあり、それをプリントしてもらうことができたからだ。
最初の連載にも書いたとおり、うちの祖父はとにかく用意のいい人だった。木に屋号をくまなく書いていただけでなく、当地の森林組合に仕事を委託して、境界をつぶさにデータとして残してもらっていたらしい。そういえば一枚だけ、森林組合からの見積書が残っていた。「これは委託しなくてよい」という達筆のメモが添えられていた。
その状況がどういうことかを私が読み解けていれば、Kさんとあんなに迷いながら山を歩くことは無かっただろうか。森林組合に直行して根掘り葉掘り問い合わせ、山の境界を確認するという選択肢があったかもしれない。でも祖父が亡くなった当時は、そんなことを思いつく知識も知恵も無かった。さらに言えば、祖父が生きている間に山のことをもっと共有しておけば良かったのかもしれない。いろんな状況が頭を駆け巡る。だけど、今となってはKさんとあれだけ四方八方歩いたからこそ、気付きがぐんと増した。現地に足を運ぶとは、そういうことなんだと思う。
時を経て、同じ道を歩く
さて、その場所は森林組合からもらった測量データに、「除地(じょち)」と記されていた。土地区分の一つである除地とは、江戸時代に年貢を免れた地のことを言う。「そんな扱いの土地だから、なかなか厄介な場所でしょう」と話すKさん。アプローチできそうなきっかけを探しながら、山を下ってみることにした。
集落の一番下の家から、降りることが可能な細い道を見つけた。足袋でザクザク降りていくと、根っこから倒れてしまった木が道を塞いでいる。「だいぶ前に風で倒れたものですね。それ以来、ここは誰も歩いてないでしょう」と話しながら、Kさんは鉈で木を伐り、道を少しだけ整備した。
そのまま下っていくと、川沿いの細い国道に出た。いつも山へ向かう時に車で通る道で、今は営業していない小さなお店が傍らにある。春の温かい日差しに囲まれ、店の外に置かれたベンチでは、ちょっとした井戸端会議が行われていた。「そこから降りてきたん?」高齢の女性に声をかけられ、私が理由を話すと「ああ、あの道か。そこは昔、小学校に通う子どもたちが使っていた山道だわ。よう降りてきたねー」と言う。「そうそう、あの道をあがるとな、山川●●さんという人がおってのうー」「うちも山川なんです」「おお、そうかー」と会話に花が咲いた。そして、私は話をしている内に勘付いた。今、降りてきた道は連載4に記した、祖母が白無垢で歩いた道だと。私は山を歩く前提の格好で来ているから大丈夫だけど、白無垢で歩けと言われたら、まあ泣くわなぁ。思わず、空を見上げた。
二度と行けない場所
改めて、麓から「除地」を目指すことにした。渓流がいくつか流れており、そこを避けながら登らねばならない。KさんのGPSを頼りに、道なき道を歩いた。あまりに傾斜がきつく、獣の気配もない。杉も植えられていないので、おそらく江戸から明治にかけて山を分配した際、最後に残ったあぶれものの土地だったのだろう。「このあたりですね」と崖のような地に立ち、Kさんは地図とGPSを確認する。地図上ではほんの小さな場所なのに、楠をはじめとした常緑広葉樹が脈々と根をはり、人工的な山とは違う自由な空気が流れていた。
ここに来ることは、おそらく私一人では難しいだろう。どの木にも屋号が書かれておらず、あまりにも手がかりが無いからだ。祖父も来ていないような気がする。二度と来ることのない場所かもしれないと思うと、ちょっとセンチメンタルな気分になる。そんな「除地」は静寂に包まれた佳景で、忘れがたい場所だった。
残せない理由
一年半ぶりとなったKさんとの山歩き。ただその間も私は何度も山へ足を運んでいる。いつ頃からか、山へ行く目的が、「歩く」ではなくなっていた。
そもそも後世に事実を残したいという気持ちから、まずは境界を知るためにKさんと山歩きを始めたのだった。しかし山に入ると目の前のことと常に対峙せねばならないし、足元がすくわれるから、写真を撮っている暇も無い。家に帰ると疲れ果てていて、寝ている間も身体が興奮し、筋肉がざわついているのがわかる。情報量が多く、何よりも現実が圧倒的過ぎるのだ。もともと、書いて伝えることが私の本業だった筈なのに「目の前で起きていることは記すことができない」というジレンマに陥っていたのだった。
そんな折、冒険家の角幡唯介さんの著書『書くことの不純』(中央公論新社)の一節が突き刺さった。<行為者からすると、書いて伝わるような表面的な面白さよりも、書いても伝わらない深度のほうが本物に接続されている感覚がつよく、魅力的である>と。しかし、そういう角幡さんも書く人なのだ。同書ではノンフィクション作家の沢木耕太郎さんのエッセイ集『夕陽が眼にしみる』(文春文庫)を引用している。<ひとたび「物書き」になってしまった以上、さりげない旅などできはしないのだ。(中略)「物書き」には、当たり前の旅行者が持っている、旅そのものが目的ということからくる切実さが欠けているのだ。「物書き」が紀行文においてさりげなさを装うことは欺瞞にすぎない。>
私は山を通して何をしたいのか。境界を歩いても、山は変わらない。自分の持ち物がどんなものかは徐々にわかってきたけれど、直接山には関われていない。山のことを書いて伝えていくことは大事だけど、単なる取材で良いのだろうか。しかも自分の持ち物になるというのに……。
そんな矛盾や疑問に悩まされていた折に、私は山に住むアーティストから「まずは、木を伐ってみませんか?」と声をかけられたのが、2022年の3月。一緒にうちの山を歩き、帰りの車の中でのことだったと思う。あまりにもその一言がさりげなさ過ぎて「あぁ、それはやったことないな、やってみるか」という感じでスタートしたのだが、これが大胆にうねり始めた。やりながら追いついてくることばかりだ。
こうして、私は山で木を伐ってみるために様々な人と知り合うことになった。木を伐るとは、どういうことか……その方法、仕組み、体力、知識など、学ぶことはたんまりとあった。そして冒頭に書いた「山の爺たち」と出会った。
チェーンソーと草刈り機と製材機の音で、全てがかき消される喧噪の中で。
山川 愛(やまかわ あい)
愛知県在住。公益財団法人かすがい市⺠文化財団プロデューサー。金沢美術工芸大学工業デザイン科を卒業後、アートマネジメントの領域で活動。同財団に入職後は、展覧会や演劇公演の企画・広報、昨今は自分史を始めとした市民との協業事業を担当。2021年から亡き祖父の山に入り、山主として自分に何ができるかを模索している。
あとがきコラム#6 山と本
イ・グミ 『そこに私が行ってもいいですか?』
山の境界を歩きはじめた頃、私は会社で新しい仕事を任されることになった。それは、文化・芸術を個人史という視点から捉えた時に何ができるか?というプロジェクトだ。コロナ禍の真っ只中、何をどうしよう?そんな時、個人で、しかも一人で出版社をやっている気骨ある編集者に出会った。里山社の清田麻衣子さんだ。「まずはお話ししたい」とトークイベントにお誘いした。お題は、個人の物語から、社会の普遍性を描き出すことについて。
当時の里山社の最新刊は『そこに私が行ってもいいですか?』だった。教科書では味わうことのできない、1920年から54年の韓国を舞台にした二人の少女の複雑な物語。
私が小・中・高と広島で育ち、平和教育を受けた者であることを事前に伝えた上で、翻訳者の神谷丹路さんに「(この本を読むまで)お隣の韓国の歴史を深く知らなかった」と伝えた。すると「韓国は忙しかったから……」と一言。
人間は揺れながら生きている。そして、ある一瞬でより良い判断をしているつもりなのだ。しかしその判断が後の誰かにとって、善にもなれば悪になったりもする。しかし、その判断理由を伝える暇がない。何故なら、命と引き換えるくらいの切羽詰まった状況だからだ。韓国はそのくらい忙しかったし、今なお歴史の様々な問題に対して、解釈のズレや誤解があることが腑に落ちた。それは山も同じだから。
シリーズ「山って…何なん?」 と何度もつぶやくことから始まった、山主候補生の活動日記
「山って…何なん?」 と何度もつぶやくことから始まった、山主候補生の活動日記
祖父が残した言葉をきっかけに、山へ通いはじめた「私」。祖先が守ってきた山とは、何なのだろう。
爺さまが残したもの
[新連載] 2020年の春、爺さまが亡くなった。最後の言葉は「山は、もう、いい」だった。
ところで…「山」ってどこにあるの?
祖父と過ごした思い出の山はどこにあるのだろう? 行けば「うちの山」ってわかるのだろうか?
山の境界を歩く(1)
静岡県浜松市の水窪町で出会ったのは、自伐林家に生まれ、山と共にいきてきた一人の若者だった。
山の境界を歩く(2)
山の境界を目指し、いよいよ山の中へ。道のない山面を必死で上がると、爺さまたちが守った山の姿があった。
山の境界を歩く(3)
相続する山がどこにあるのか、境界線がどこなのか。山を歩き、県庁を訪ねてわかってきたその全貌とは?
もう、欲しいものなんて無い
山を相続した私は、木を伐ることを学び始めた。その営みと共に、出会いや別れも訪れる。